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「動き出し」が特徴 オフ・ザ・ボールの動きに長けた万能型ストライカー柳沢敦

柳沢敦

小学校一年生から、地元、富山県射水市のサッカークラブでプレーを始めた柳沢敦。中学校時代にはU-15にも選出されるなど、早くからその才能は突出していた。そして、柳沢敦は名門富山第一高に進学する。ここで一年時からレギュラーをつかむと、超高校級ストライカーとして注目を集めていた三年時には、エースとしてチームを牽引。惜しくも国立を前にベスト16で大会から去る事となるが、この活躍を受け、J各クラブからオファーが舞い込むが、鹿島アントラーズへの入団を選択する。

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※出典 http://www.so-net.ne.jp/antlers/encore/histories/yanagisawa.html

右利き
177センチ
75キロ

 

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生い立ち

 

当時の鹿島にはマジーニョ、黒崎、レオナルドなど錚々たる顔ぶれがスタメンに顔をそろえ、このシーズンには年間チャンピオンとなるほどのチーム力を誇っていた。

しかし、 限られた出場機会の中でもリーグ戦5得点を挙げるなど、そのセンスの高さを見せつけた。

この頃、1997年マレーシアで開催されたワールドユース日本代表のメンバーの一員としてアジアの列強と数多く試合を経験し、それが自身の血肉となっていった。

特に柳沢は背番号10番を背負い、チームの中心的な役割を担っており、チームのベスト8進出に大きく貢献した。 

この大会で大きな自信を得ると、それがクラブの成績にも昇華していくという好循環が生まれる。1997シーズンは8得点を挙げて新人王に輝き、翌1998年シーズンは、自身キャリアハイの22得点を叩き出すなど、大いに躍動。鹿島の年間優勝の文字通り立役者となり、チームのエースとしての地位を確固たるものとした。 

日の出 の勢いの若武者の活躍がこの男の目に留まらないはずがない。当時日本代表を率いていた岡田武史監督である。 

フランスW杯を前にしたキャンプに、当時20歳の柳沢とプロ2年目の中村俊輔を招集未来への投資のような意味合いだったが、それほど関係者の期待値は高かったと言える。

柳沢は1998年2月15日のテストマッチ、オーストラリア戦で、A代表デビューまで飾っている。

しかし、まだW杯メンバー23人枠に滑り込むには実績に乏しかったと言えるが、この時の経験はその後花開く。

フランスW杯終了後に日本代表監督に就任した、フィリップ・トルシエ監督は、若手の登用に積極的で、また、フル代表、若年世代を含めたすべてのカテゴリーを自分が指揮することによって独特の戦術コンセプトを 浸透させようとした。

その狙いは当たり、2000年に行われたシドニー五輪では32年ぶりのベスト8進出を果たした。柳沢は1得点に終わり、大車輪の活躍の高原直泰の陰に隠れた感はあったが、見事な補完性を見せ、準々決勝アメリカ戦では、貴重な同点ゴールを決めるなど、現時点での国内最強のFWであることを印象付けた。

同大会ではPK戦の末にアメリカに苦杯を舐め、惜しくも大会を去る事になったが、その流れを汲んで、五輪メンバーを多く投入して大会に臨んだアジアカップレバノン2000では、自身にとっても日本代表にとっても大きく飛躍する契機となった。

前回大会(1996年アジアカップ)がクウェートのカウンター1発に沈みベスト8で敗退しているだけに優勝への期待はもはやノル マとも言える状態にまで高まっていた。グループステージから、当時アジアの盟主の座を争うライバル国であったサウジアラビアを4-1と葬り去るなど、日本の攻撃陣が爆発した。

柳沢は西沢、高原の陰に隠れ、第三のFWという扱いではあったが、1得点はあげ、ポストプレーなどで随所に持ち味を発揮。

もはやトルシエジャパンに不可欠な存在であることを認識させる結果となった。 

自国開催のワールドカップへ向け、同大会制覇で一気に助走をつけた日本代表。

柳沢はエースとしてトルシエに重用されるようになり、クラブでも好調を維持しており、ワールドカップ代表入りは当確と思われていた。

しかし、この頃、自身の「点を取るだけがFWの仕事ではない」という発言がメディアに度々しかも、否定的に取 り上げられるようになり、物議を醸すこととなる。 

ストライカーというのはエゴイストでなければならず、もっと強引にゴールを狙わなければならないと柳沢のプレースタイルに物足りなさを指摘する識者が多かったのだ。

しかし、それを一気に払しょくしたのが、2001年11月7日に行われたイタリア代表とのテストマッチである。 

自国開催のため、予選免除となる日本代表は、テストマッチのみが強化の場となる。

数多く、強豪国と対戦しては跳ね返されるということを繰り返し、力をつけてきたが、このイタリア戦では、開始早々、稲本潤一からの難しいクロスをアウトサイドのダイレクトボレーで合わせるという難易度の高いシュートで、あのジャンルイジ・ブッフォンの牙城を破り、先制点を叩 き込んだ。

このゴールはフリーでシュートを打っており、その前のフリーになる動き出しなど、同選手の良さが凝縮されたシーンと言っていいだろう。 

リーグ戦では12得点を挙げ、チームは最大のライバル磐田とのチャンピオンシップを制して、2年連続の年間王者に輝く。こうして、最高のコンディションを維持したまま柳沢はW杯イヤーを迎えることになった。
 

迎えた2002年、リーグ戦ではコンディションは上がらなかったが、W杯では得点こそ挙げられなかったものの、史上初のW杯勝ち点3となった、グループステージ第2戦ロシア戦では、チームメイトの中田浩二のクロスを相手を背負いながらポストプレーをして、この大会のキーマンとなった稲本潤一に絶妙なアシスト。

見事に決勝点をお膳立てするなど、大会の要所でカギとなる働きをして、史上初の決勝トーナメント進出を後押しした。 

 

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転機

 

 W杯終了後に、日本代表監督は恩師ともいえるジーコが就任。ますますその地位を確固たるものとしたが、W杯終了後に次々と海外に挑戦する日本代表選手に続くように、03-04シーズン開幕前に、セリエAサンプドリアにレンタル移籍。大きなステップアップに思えたが、フィジカルの厳しいリーグ、何より「結果至上主義」で、点を取らなければストライカーとして全く評価されない国で、過去にはスクデット獲得経験もある古豪での挑戦は困難を極めた。

当時のイタリア代表FWバッザー二と、フラーキの控えに甘んじ、出場機会を満足に得られない日々。

イタリア1年目の挑戦は15試合出場無得点という厳しいものに終わった。

翌04-05シーズンにはセリエA に昇格してきたシチリア島の小クラブ、メッシーナに移籍をする。出だしは好調だったものの、リーグ戦22試合ノーゴール。

やがて、ドイツW杯予選を戦う日本代表からも招集されないようになってしまう。

結局、翌シーズンもメッシーナ残留を選択するも、さらに出場機会は減り続け、結果、3シーズンでイタリアで刻んだ足跡はゴール0という日本最高峰のFWの実績としてはあまりにも寂しいものであった。 

結果として、この3年間がその後のプレーに微妙な狂いを生んだような気がしてならない。

けが人などの事情で、数か月ぶりに招集された日本代表で、ドイツW杯出場決定を決めるゴールを挙げるなど、まだまだ健在ぶりを見せた柳沢。

しかし、本大会23人枠メンバー入りに向け激化するFW争いの中、何とか出場機会を得るべく、3年ぶりの古巣鹿島復帰を果たす。2006年シーズンは、開幕戦でハットトリックを決めるなど、復活を予感させたが、3月末千葉戦で、右第5中足骨骨折。

診断は全治2か月で、メンバー発表の期限が迫る中、かつて日韓W杯前にイングランド代表MFデイビット・ベッカムが大会直前に負傷した個所と同じ個所を骨折ということで、メンバー入りが不安視された。ベッカムは奇跡の大会出場を果たしたが、柳沢はどうか。 

しかし、不安は 杞憂に終わ り、何とか23人枠に滑り込んだ。 

しかし、本大会では、初戦の衝撃の逆転負けを受けて迎えた第二戦、0-0のスコアレスの中迎えた加地のクロスを触るだけで1点という千載一遇のチャンスを詰めきれず、逃してしまう。

結局互いにいいところなく、スコアレスドローに終わる。 

最終節のブラジル戦に完敗し、日本代表のドイツW杯は幕を閉じた。 

2006シーズンは4得点に終わるなど、かつての精彩は鳴りを潜めてしまった。 

ドイツW杯終了後に日本代表監督に就任したイビチャ・オシム監督政権のチームには招集されず、ドイツ大会が日本代表での最後のプレーとなった。

そして、2001年以来、リーグ戦タイトルのない鹿島にとってはリーグタイトル奪還は悲願ともいえる至上命題で、そんな中 、かつてのエース柳沢に代わって、同じく高校サッカー選手権で名を挙げた興梠慎三、大学№1プレーヤーとの触れ込みで入団した田代有三が台頭してきており、彼らが次第にスタメン出場する機会が増えてくると、柳沢はベンチを温めることになっていった。

このシーズン、終始浦和にリードを許す苦しい展開だったが、終盤に驚異的な追い上げを見せ、また浦和のまさかの失速もあり、最終節で大逆転優勝を果たした。

しかし、柳沢自身は出場機会を求めて、京都への移籍を決断する。
 

翌2008年シーズン、エレベータークラブの宿命で毎シーズン残留争いに巻き込まれるクラブの残留に貢献、自身は14ゴールという日本人最多得点を挙げ、ベストイレブンにまで選出されることになった。 

移籍を経て、逆に開花したものがあったのかもしれない。

しかし、その翌年、自身は左ひざの手術のために、長期離脱を余儀なくされることになった。

それでも何とかチームは残留を果たしたものの、翌2010年シーズン、ついにJ2降格が決定。 

J2降格に伴い、年間予算の大幅削減などの影響から、高額年俸選手は真っ先に放出対象となるため、シーズンの途中から戦力外通告を受けていた。 

翌シーズンは、仙台に移籍するが、開幕戦を終えて、全チームが第2節 のための コンディションづくりをしていた3月11日に東日本大震災が発生。 

無論、震源地である仙台は未曾有の被害を受けた。 

とてもサッカーをやるような環境、心理状態ではなかった。 

まずガソリンが全くない。

東京から先に供給されないためだ。 

しかし、選手たちは、こういう時こそいつもサポートしてくれるファン、サポーターに恩返しができる時だ、と自転車で宮城県の街を駆け回り、物資を届けたり、募金活動を行ったりしたこともあったという。 

柳沢も、最初は契約の問題で仙台を仕方なく選んだ嫌いがあったと考えていたが、こうした経験を経て、まさしくここに来ることは運命だったのだ、とコメントしている。
 

仙台の4年間ではケガによるコンディション不漁にも悩まされ、ゴール数は伸びなかったが、プロとしての姿勢は多くの若手選手に影響を与えたに違いない。 

そして、2014シーズン終了をもって現役引退を発表。

Jリーグ通算108得点は歴代10位だが、多くの記憶に残るプレーを残してくれた。 

現役引退発表後すぐに、古巣鹿島でのコーチ就任が発表され、やはり、相思相愛なのだということを感じさせてくれた。 

これからの第二の人生を多くのサッカー関係者が楽しみにしている。

 

※出典 https://www.youtube.com/watch?v=dvcrrhel0lA

名言、プレースタイル

 

「点を取るだけがFWの仕事じゃない」というのは柳沢自身のプレースタイルを反映したコメントだが、メディアでは「FW」論として物議をかもした。 

今は当時からさらに10年以上経っているため「多くの国民のサッカーを見る目」が肥えているから、「そういう考え方もある」という一定の理解を示すこともできるだろうが、当時はまだ日本のサッカーは行動成長期だったのだ。 

欧州、南米の最先端ブランドに振り回され、これが良いと言えばこれが白、といった具合になんでもそれを信用する、というような状態だったと思う。

ストライカーはエゴイストたれ、シュートを打つことだけを考えろ、確かにそうなのだが、今はFWに限らず、す べてのポジションの役割が多様化、細分化しており、求められる役割はそれだけではない。 

世界最高のFWと言われるメッシですら守備もするし、フリーランもする。柳沢はすでに最先端を見据えていたということだ。
 

いわゆるダイアゴナルランをして、いったんDFの視野から消えてフリーになる動き、CKの際など、一瞬のうちにふりーになるなど、オフザボールの動きに非常にたけている。それは恩師ジーコに教わったのだという。 

シュートに関しても正確性があり、どちらかというと、コースを狙った優しいものが多かった。

 

※出典 https://www.youtube.com/watch?v=p0fMQBswuLY

 

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